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歌手・作曲家 中 野 成 将 氏(1)
なかの・しげまさ。1980年埼玉県生まれ(43歳)。武蔵野音楽大学音楽学部演奏学科声楽コース卒。2004年 GUNSHY(ガンシャイ)結成、2009年休止。2011年単身ニューヨークへ。The Wall Street Journalに2011年・2014年に記事が掲載される。2019年ハワイに移住、CD『Angel Eyes』をリリース。2021年帰国し音楽活動など精力的に活躍中。
2023年9月28日、第4回 インタビューVisit取材のため、車で中央自動車道一宮御坂インターチェンジの脇を通り過ぎる。しばらく走行して山梨市駅の跨線橋を渡り万力公園前を通り過ぎ、ほどなくしてフルーツライン入口を一気に上がる。インターチェンジ脇から約30分で、山梨県笛吹川フルーツ公園内にある取材場所の『フルーツパーク富士屋ホテル』に到着した。
第4回 インタビューVisit(ビジット)は、2011年単身ニューヨークへ、同年ウォール・ストリート・ジャーナルに『立ち寄る価値のあるストリートシンガー』、また2014年には『音楽家は不死鳥のように舞い上がる』の記事で脚光を浴び、ニューヨーク最大の大聖堂でコンサートを開催するなど活躍する。2019年にはハワイ音楽にいそしみたいとハワイに移住したが、2021年に新型コロナウイルスでやむなく日本に帰国。同年TOEICトータルスコア925点を収得した。異彩の音楽家 中野成将氏の足跡(そくせき)をくまなくインタビューする企画である。
駐車場に車を置き、足早に南欧風のゲートをくぐり抜ける。すると、中庭に佇むチャペルシエラの前にあるテラスに置かれたテーブル群の中で、今回のゲスト中野成将さんがスマホを見て寛いでいる。
「中野さん、お待たせいたしました」と声をかけると、「あ、小林さん。ここは風が通り抜けて心地良いですよ。それに、ここはロケーションも良くて最高ですね」と、立ち上がり世界遺産の霊峰富士を中央に据え、黒岳(くろたけ)・釈迦ヶ岳(しゃかがたけ)・節刀ヶ岳(せっとうがたけ)などの山並みの大パノラマを指差す。
テラスの傍から斜め下を見ると、3棟の近未来のドームが一際目立つ。その先には甲府盆地が深く沈み右に帯状に長く広がっている。
心地よい風と優美な光景に魅了され、「中野さん、藤原稔カメラマンさんが来られるまで時間がありますから、ホテルの中でなくてここで待ちましょうか」と、失礼して中野さんと同じテーブルに腰掛けた。
10月になるというのに酷暑が続きうんざりしていた。この、丘の上のリゾートホテルには時折、我々のテーブルをほのかに秋の香りを乗せた風が爽やかに吹き抜け、中庭の噴水越しに見える南欧風の本館建物へと抜けて行く。約束の時間に藤原カメラマンさんも合流し、ホテル内の西欧料理 ラ・コリーナでインタビューに臨んだ。
TOEICトータルスコア925点を取得
異彩の音楽家 中野成将氏
🟢 プロ野球選手を夢見て山梨学院へ 🟢
小林一(以下 小林) 「第4回インタビューVisitは、異彩を放つ音楽家 中野成将さんについて根掘り葉掘りお伺いしたいと思います」
中野成将(以下 中野)「小林さん、9月16日の『萌木の村 森のコンサート』にお越しいただきありがとうございました」
小 林「『萌木の村 森のコンサート』は、パンフレットの『自然の韻(うた)が聴こえてくる』、『耳馴染みのあるクラシック音楽や映画音楽、Popソングを自然と共にお楽しみください』というふれこみ通り、大音量で自然の音を掻き消すことはない。時折、聞こえる鳥の囀りなどがコンサートに溶け込んで素敵でした。こうした発想は、実に中野さんらしいコンサートだなと思いました」
小 林「また、みんなでユニゾンした『カントリー・ロード』は、外人の方も観客にいたのでアメリカの西部開拓を連想しましたが、途中で清里開拓の功労者で『清里の父』と呼称されるポール・ラッシュ博士の開拓史や”Do your best and it must be first class”(全力を尽くすこと、それは超一流のものになる)などが頭の中で錯綜して、私にとって意味深いものとなりました」
「コンサート終了後には、妻と広場を散策して萌木の村ROCKでビーフカレーを食べて帰路に着きました。約15年ぶりに清里を満喫でき最高でしたよ」
中 野「ありがとうございます。当日、用意された椅子が足りなくて、石垣に腰掛けて聴いていただいたり、歩道で聴いていただいたりと、盛況でありがたかったですね」
小 林「中野さんは、いつ頃から音楽家を目指したんですか」
中 野「実は小さい頃からプロ野球選手になりたいと思っていました。その夢を叶えるために、山梨学院大学附属高校に進学して、野球部に入り約3年間に渡り野球部寮で生活をしました」
小 林「東京からわざわざ山梨へ」
中 野「はい。調布リトルで荒木大輔投手(ヤクルトドラフト1位・野球解説者)を育て世界大会(1976年)で優勝し、また山梨学院を関東大会で優勝させ、春の甲子園出場に導いた鈴木英夫監督がおられたことと、野球場や寮などの施設も充実していたので、甲子園が狙える高校だと、友達と山梨学院大学附属高校を選びました」
中 野「寮生活は、なんと3年生でエース左腕 伊藤彰先輩と同部屋でした。伊藤先輩は早くからプロ注目の選手でしたから、迷惑にならないようにと毎日練習に励み緊張の連続でした、…..」
中 野「先輩たちには、夏の甲子園に2度連れて行ってもらい、精一杯スタンドで応援しました。伊藤先輩もヤクルトドラフト1位で入団されて、今でも忘れられない良い思い出です」
中 野「鈴木監督指導のもと、がむしゃらに他をかえりみずに野球に熱中し続けましたが、3年次には甲子園に行けませんでした。それでも、その甲斐あって体格に恵まれていないながらも、1番センターで山梨県のベストナインに選ばれました」
小 林「山梨県のベストナインに選ばれたことは、中野さんは甲子園に行ったと同じ評価をいただいたという証ですね」
中 野「え、そう、そうですね。監督始め指導者やアットホームな食堂の江戸一のおじさん、応援していただいた方々には感謝しかありませんね」
小 林「名将 鈴木監督指導のもとで3年間野球に熱中し続け、3年次には1番センターで山梨県のベストナインに選ばれたものの、甲子園とプロの道は閉ざされたわけですか」。「実に厳しい現実ですね、…..」
🟢 家庭教師が隠れた才能を覚醒 🟢
小 林「高校野球は夏の大会が終わると3年生は引退になりますね。進路はどのようになりましたか」
中 野「迷わず、プロ野球選手が駄目だったら音楽の道に進もうと思っていたので、…..」
小 林「そういえば確か、GUNSHY当時のプロフィールに母親の勧めで『幼い頃(5歳)にバイオリン、以後、フルート、サックス、ギター、ピアノなど習うがあまり熱中せず、中学の時にビリー・ジョエルのモノマネで歌うことに目覚める』とありましたが、曲目は何でしたか」
中 野「『Honesty』(オネスティー)です」
小 林「1978年リリースで、『ニューヨーク52番街』に収録され、翌年に第3弾シングルとしてリリースされたバラードですね。よくカーラジオなどで流れていましたね。甘く切ない哀愁に満ちた歌だなと聴き入っていましたね」
中 野「よく覚えておられますね」
小 林「そう、当時ネッスル チョコホットのテレビCMのBGMで流れていたので、日本人には馴染みがある曲ですよ。それからカーラジオではよくリクエストなどで流れていましたからね。強烈に覚えていますよ」
小 林「確か、私が25歳か26歳ですよ。え、約45年前ですか。すると中野さんが生まれる前の曲ですよね」
小 林「その当時の生まれの人は、どう考えても1992年の映画『ボディガード』の主題歌でホイットニー・ヒューストンのオール ウェイズ・ラヴ・ユーや、1993年リリースのマライヤ・キャリーのヒーロー。マイケルジャクソンなどでしょう」
中 野「そうですよね。実は母親の勧めで中学1年生の時から、大学生の家庭教師 鶴田慎二郎(つるた・しんじろう)先生が学習をサポートしてくださいました。『成は音楽が好きだから』と、毎回先生お勧め洋楽のCDを持って来て貸してくださいました。その中にオネスティーとピアノ・マンが入っていました。ビリー・ジョエルの歌声に合わせて一緒にハーモニーで合わせると、それなりに2曲とも歌えたんです」
中 野「それからは、特にオネスティーのコピーに夢中になりましたね。3階建てに住んでいて、私が3階の部屋で歌うと二人の姉が互い違いに1階から上がってきては、『近所迷惑だから歌うのやめて』と何度も注意されました。その度に、『自重しないと行けない』と自分を戒めても結局は声を張り上げて、二人の姉から注意を受ける繰り返しでした…..」
中 野「そう、先生のお陰で英語が好きになり、中学2年生の時、英会話のサマー留学プログラムでカナダの都市バンクーバーに1か月間ホームステイしました」
小 林「一般家庭に1か月間生活しての滞在ですか」
中 野「そうです。英語の豆辞書を片手に過ごしましたが、この経験は英語の日常会話について、凄く自信になりました」。「中学3年生の夏には、友達のまーちゃんのハワイの別荘に2週間行きましたが、日常会話にはことを欠きませんでした。この経験がさらに英語が面白くなるきっかけになりました」
小 林「言うに及ばず、中野さんの母親の愛情と教育があっての事が前提となりますね」
中 野「母や家族には感謝しても仕切れませんね」
小 林「るる話をお伺いしましたが、家庭教師の鶴田先生が中野さんの隠れた才能を覚醒させましたね」。「音楽が好きな生徒に、英語学習の向上にと洋楽のCDを与え続けた。生徒はビリー・ジョエルのオネスティーに夢中になり、すると生徒は歌に芽生えると同時にネイティブな英語学習にも夢中になった」
小 林「先生は生徒に、点取学習に合わせて、真の学ぶ楽しさを与え、後の人生の選択肢を与えてくださった」。「本当に良い先生に巡り会えましたね。今となっては中野さんの人生の岐路の恩人ですね」
中 野「確かに、そうですね」。「今でも実の兄のように『鶴ちゃん』と呼んで慕っています」
🟢 ボン・ジョヴィに憧れ武蔵野音楽大学受験 🟢
小 林「それで、進路はどのようになりましたか」
中 野「当時、ハードロックグループのボン・ジョヴィに憧れていまして、プロ野球が駄目ならロックバンド活動でもしようかと思っていましたので母に打ち明けました。すると母親から『音楽の道を選ぶのなら、大学に行ってからにしなさい』と一言進言されました」
小 林「それで、…..」
中 野「その一言で、1番上の姉は武蔵野音楽大学を主席で卒業して、桐朋学園大学音楽部研究科に在学中でした。2番目の姉は武蔵野音楽大学3年生在学中だったので、当然のように武蔵野音楽大学を目指すことにしました」
小 林「音大受験は、学科試験、面接試験、それに選考実技がありますよね」
中 野「そうですね。私は音楽学部演奏学科声楽コースを受験するので、夏以降は筆記試験勉強と課題試験のピアノ練習に励みました」
中 野「山梨から週1回、埼玉県の東大宮にある『うすい音楽教室』の薄井彰子(うすい・あきこ)先生の指導を仰ぎました。先生のご厚意で土・日曜日の朝一番に歌唱実技とピアノレッスン、そのまま居残りで筆記対策などを行い、先生が生徒のレッスン指導を終了後すると再度実技指導を行なっていただきました」
中 野「平日は高校の授業が終わり次第に音楽教室に篭り、特にピアノのハイドンの課題曲について1日に1小節を、今日は右手、明日は左手と、2日掛かりで仕上げていきました。また歌唱練習と筆記試験対策にと必死に受験勉強に励みました」
小 林「受験結果は、どうでしたか」
中 野「野球部の鈴木監督の『今ここで、ここで今』という、目的を達成するために、目標を立てて、日々わき目も触れず努力し、勝利を勝ち取るという教えを信じ、薄井先生や高校の先生のサポートもあり頑張ることができました」
中 野「その結果、歌唱ではトップの成績で、ピアノ課題と筆記も頑張り合格することができました」
=次回『歌手・作曲家 中野 成将(2)』掲載=
(文・タイトル写真 小林 一)(カメラマン 藤原 稔)