第10回インタビューVisit 中 野  成 将 氏(7)

小 林「ニューヨークに到着して直ぐに、ポートオーソリティ・バス・ターミナルの地下鉄A C E Canal St線の改札付近で『アメージング・グレイス』などを歌っているのを視聴したジョン・ボイドさんにスカウトされたわけですからね」。「まだ、語学学校に通っていない時ですよ」

中 野「そうですね」。「1か月後の3月に語学学校には行きましたからね」

小 林「その年に記者が歌声を聞きウォール・ストリート・ジャーナルに『立ち寄る価値があるストリートシンガー』として掲載していますから」。「さらに、その記事の中で、『ヴァリアントが「彼(中野)が、”The  Prayer”(祈り)という曲を歌い出すと、彼の新鮮で自信に満ちたテナーボイスは女性たちを虜にします」と言いました』と掲載されていますから。ネイティブスピーカー以上の魅力があった証ですよ」

小 林「ところで語学学校はいつまで通いましたか」

中 野「2012年2月に就労ビザ取得が出来たため、仕事が忙しくなり学校を辞めました」

小 林「2014年、中野さんは再びTHE WALL STREET JOURNAL(ウォール・ストリート・ジャーナル)で特集されました」。「タイトルは”Musician Rises Like a Phoenix”(音楽家は不死鳥のように舞い上がる)、副タイトルが”Japanese street performer to sing at Cathedral of St. John the Divine”(歌う日本のストリートパフォーマーが、セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂で)」

小 林「この記事の舞台となった大聖堂についてお話しください」

中 野「はい。セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂は米国聖公会の聖堂でマンハッタン区にあります」。「1892年に建設が始まり、現在は3分の2を終え完成すると世界最大のゴシック様式の大聖堂となる予定だと言われている教会です」

小 林「記事の冒頭にMs.Conry(以下 コンリー)さんが登場しますが」

中 野「コンリーは、元ブロードウェイの女優さんで、私が日本人シンガーのコンサートに出演した折に紹介いただきました」。「それがご縁で、ベセスダの噴水へ通じるミントンタイルアーケードに歌を聴きに来てくれました」

小 林「記事でコンリーさんが『「私は彼(中野)の才能を認識しました」』。『「彼は鳥のように美しく歌う魅力的な男性でした。私は言いました、私と一緒に私の教会に行き、歌ってください。もちろん、無料で」』と言っていますが」

中 野「コンリーがMetro baptist church(メトロ バプテイスト教会)に、2011年の例祭に招待してくれました」。「そこで”The  Prayer(祈り)”やシューベルトのアヴェマリアなどを披露しました」。「それからは、2019年まで年に2回~3回招待してくれました」

小 林「招待は、復活祭、聖霊降臨祭、クリスマス(降誕祭)などに、ということですね」

中 野「そうですね」

小 林「記事には『その後、コンリーはミュージシャン(中野)に対して多くの親切を返しました。最初に、メトロポリタンオペラ合唱団で歌っている友達に連絡を取り、中野さんの才能について話しました』。『その友人、Mark Dawson(マーク・ドーソン)は非常に感銘を受け、また「彼(中野)はストリートで人々が投げ入れるお金で生計を立てています」と聞き、中野さんを1か月間、オペラレッスンに通わせる費用を負担しました。「それは1時間150ドルです」とコンリーさんは説明しました』とありますね」

中 野「この機会は2013年に実現しました。ニューヨーク・メトロポリタンオペラ、世界を代表するオペラハウスの一つで、コーラスメンバーとして活躍するマーク・ドーソンさんのご厚意で奨学金を頂戴しました。これは、コンリーの推薦があったお陰です。その後、メトロポリタンオペラで活躍する著名なバリトン歌手、Mark Oswald(マーク・オズワルド)さんに師事する機会を得て、その指導のもとで学ぶことができました」

小 林「マーク・オズワルドさんからは、どのような指導を受けましたか」

中 野「まず、発声で ”あいうえお” でしっくりこない部分の、口の開けかたや舌の使い方の矯正レッスンを受けました」。「また、オズワルドから『中野は高音は素晴らしいね』と褒められましたが、低音の響きについて『中野ならもっと響くはずだ』とレッスンを受けました」。「一般的に共鳴させる場所は頭・鼻・口・胸・腹など、ケースバイケースで異なりますが、低音のレッスンでは胸で共鳴させ響かせるように指導を受けました」。「これらにより、自分なりに高音から低音までしっくり発声できるようになりました」

中 野「コンリーに感謝を込めて、その成果を披露すると大変喜んでくれました」

小 林「さらに記事には『コンリーさんは34歳のアーティスト(中野)に、シュー・ビン(Xu Bing’s)の彫刻が何かを刺激する可能性があると考え、大聖堂に案内しました。 実際には、中野さんは既にフェニックス神話にインスパイアされ、独自の作品、”Phoenix from the Ashes”(灰からのフェニックス)に取り組んでいました。しかし、その彫刻を見て、それを完成させるきっかけとなりました』とありますね」

中 野「今回は歌ではなくて、作曲をさせていただきました。コンリーが、『あなたには作曲の才能もある』と企画してくれたんです」

中 野「最初は、フェニックス(不死鳥)の寿命を迎えると自らから香木を積み重ね燃え上がる炎に飛び込んで死ぬが再び灰から蘇るという神話から、私なりの思想や感情を吹き込んで、オリジナルの”灰からのフェニックス”取り組んでいました」。 「しばらくして、コンリーに案内され、シュー・ビンの建築現場の廃材で制作された雌約30m、雄約27mのフェニックスの作品を目の当たりにして、その壮麗で雄大な作品とコラボレーション出来る”灰からのフェニックス”に改めて取り組み完成させました」

小 林「中野さんの作品”灰からのフェニックス”の真髄は何ですか」

中 野「シュー・ビンは急速に発展する中国の姿を、建築の廃材を使い対のフェニックスで表現したものと聞き及んでいます」。「私の作品は大地に生きる人間の栄枯盛衰の姿を曲により対のフェニックスで表現しました」

小 林「栄枯盛衰は世の常、衰え灰になったら再び灰から蘇り栄える。国・企業・人にも当てはまりますね」

小 林「記事に『Alvin Ailey School (アンビン・エイリースクール = エイリー)の教員であるLori Leshner(ロリ・レシュナー)がその作品の振り付けを担当しました。アンビン・エイリースクールの講師であるFernando Carrillo(フェルナンド・カリージョ)が” Feng”(フェン)というオスの鳥を演じ、エイリーで訓練を受けたダンサーのAshlynn Thomas(アシュリン・トーマス)が”Huang”(黄=コウ)という彼の仲間を演じます』とあり、さらに『演奏家は、ビオラ Rose Hashimoto(ローズ ・ハシモト=橋本)、チェロ John Min(ジョン・ミン)、ピアノ Nick Stubblefield(ニック・スタブルフィールド)、パーカッション Zach Jacobson(ザック・ジェイコブソン)、そしてベース Joseph Archbold(ジョセフ・アーチボルド)の5人も出演します』と紹介されていますね」

中 野「そうなんです。今回は、私の曲、それに演奏者とダンサーも加わりコラボレーションを行いました」

小 林「当日の2回の芸術家達の祭典は如何でしたか」

中 野「大聖堂で行われた2回の上演は、最初の進行から最後まで、全てが非常にスムーズに滞りなく終了しました」。「シュー・ビンの対のフェニックスと、私の灰からの対のフェニックスの曲、それに演奏、さらにダンスを重ね合わせた世界を視聴していただいて、その人なりにインスパイアされたことと思います」

中 野「終わった後、コンリーの案内で関わった芸術家達やスタッフの方達と、ピアノ、サックス、ベースのトリオが演奏するレストランに入りました」。「照明で演出されたホールへコンリーが立ち上がり、ブロードウェイ女優のダンスを披露すると、皆が次第に吸い込まれるように踊り出し、私もその渦に吸い込まれて行きました」。 「まるで、映画シーンの一場面を見ているようで、素敵なひと時でした」

小 林「大聖堂でのジョイントが成功裡に終わった安堵感と充実感で満たされた情景が、今でも鮮明に蘇ります」

中 野「コンリーは、セント・ジョン・ザ・ディヴァイン教会の上層部に承諾を得るために、『これは一夜かぎりのものではなく、アート作品を尊重するものだ』と、数か月かけて承諾に漕ぎ着けてくれました」。「その恩に報いるためにも全身全霊で作曲しました」

小 林「記事に『中野氏のアメリカでの軌跡は、努力、才能、そして時折の幸運の力を証明している』とありますが、中野さんからるる小学校の頃からの事をお伺いしていて、私もまさしくその通りだなと思います」

小 林「記事で『私(記者)には、知らされていませんでしたが、彼が非凡な才能や成就を持つ人向けの労働ビザを申請する際に、私も彼のキャリアに小さな役割を果たしました』。それは『彼らの歌声を公園で聞いた後、私はボイドファミリーと中野さんについて記事を書きました』とありますが」

中 野「そうです。2012年2月に就労ビザを取得しました」。「その時に係の方から『あなたがウォール・ストリート・ジャーナルに登場したアーティストですか』と聞かれ驚きました。それは、アーティストとしての証として、本当に効果的でした」

小 林「記事に『私(記者)たちがフェニックスの下で立っていると、コンリーさんが近寄って来て「彼は日本人でありながら、すでに彼の心はアメリカ人です。彼がプロのアーティストとして懸命に活動している姿を見ていると応援したいのです」と言いました』。そして、この記事は『このアーティストの次の目標はグリーンカードを取得して、アメリカに滞在し続けることです。この木曜日の夜のパフォーマンスは、彼に有益な後押しする可能性があります』と、なんと永住権を後押しする記事で終わりますね」

中 野「Ralph Gardner Jr.(ラルフ・ガードナー・ジュニア)記者さんとコンリーから過分な評価をいただいたことに対して、私は今でも深く感謝しており、その恩は決して忘れません」

小 林「YSBF、これは何の略でしょうか」

中 野「『ユア・スペシャル・バースデー・ファウンデーション』(以下 YSBF)の略になります」。「代表は篠塚京子さんという方で、『大勢の人に笑顔になってもらいたい』と、2016年にYSBFを設立しました」

小 林「具体的にはどのような、活動をなされているんですか」

中 野「ニューヨークとニュージャージーを拠点にして、養護施設、退役軍人施設、病院、修道院などを訪問して、プロの演奏家による質の高いコンサートを送り届けています」

中 野「実は、篠塚さんから私に『友人の誕生日プレゼントに中野さんの歌をプレゼントしたい』と、篠塚さんから要請があり、ニューヨークのとある施設を訪れました」

中 野「最初は皆さんが無表情で戸惑いもありましたが、歌を披露していくうとに皆さんの表情が和らぎ、懐かしい曲を歌い演奏すると一緒に口ずさみ、一緒に涙を流し、一緒に大合唱し、そして一緒に笑顔になるコンサートでした」

中 野「篠原さんから、『友人は勿論のこと施設に住むたくさんの皆さんが、笑顔になり喜んでくれた』と深く感激されました。後日、『あなたもYSBFの設立と運営に協力しなさい』と誘われました」

中 野「私は私で時折、その時の会場と一体化した情景が鮮明に甦り、感動に浸っていましたので、喜んで一つ返事で承諾しました」

小 林「中野さんは、この活動にどのように携わりましたか」

中 野「知り合いの音楽家の方々などへのYSBFの趣旨説明やプロデュースやMC、また歌とサックスなどを担当しました」。「2016年の設立から2019年のハワイ移住直前まで携わらさせていただきました」。「最初からYSBFの活動は、会場と共に歌い、共に泣き、共に笑えるコンサートで感動の連続でした」

小 林「ファウンデーションとありますが、基金はどうなされたのですか」

中 野「YSBFは非営利団体でありながら創立以来、寄付を受けておらず、全て篠塚さんの個人支出で運営しています」

小 林「篠塚さんの全額負担ですか。篠塚さんについてご紹介いただけますか」

中 野「篠塚京子さんは東京生まれで、富士通株式会社へ入社され、システム端末教育訓練インストラクターとして、省庁や企業などで指導されていました。その経験を生かして、1974年に人材派遣やICチップの販売を行うダイナミックセールスネットワークを設立されました。1988年にニューヨークでオフィスを開設し、1999年からは読売新聞ニューヨーク・オフィスが運営していた読売コンピューターの教室を任されるなど、ビジネスで成功された方です。既に引退して、現在はYSBFの代表で活動されておられます」

中 野「篠塚さんは言葉で語らず行動で示す人。決して威張ることもなく、誠実で寛大な方です。今でも尊敬しています。そして今でも慕っています」

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