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歌手・作曲家 中 野 成 将 氏(7)
なかの・しげまさ。1980年埼玉県生まれ(43歳)。武蔵野音楽大学音楽学部演奏学科声楽コース卒。2004年 GUNSHY(ガンシャイ)結成、2009年休止。2011年単身ニューヨークへ。The Wall Street Journalに2011年・2014年に記事が掲載される。2019年ハワイに移住、CD『Angel Eyes』をリリース。2021年帰国し音楽活動など精力的に活躍中。
【前回の概要】中野はボイドとその家族と共に、音楽を通じてニューヨークの公共空間で異文化間の交流を促進し、都市の生活に彩りを添えていた。そんなある日、中野らは取材を受け2011年12月にウォール・ストリート・ジャーナルに「立ち寄る価値があるストリートシンガー」として、次のような骨子の記事が掲載された。『私(記者)が感謝祭の朝に、セントラルパークを横断していた時に、ミスター・ボイドとその一団を発見した』。『私はストリートミュージシャンが特に好きではありません』が、『先週、彼らの歌を聴きに戻った時、彼らがアメージング ・グレイスを歌うと、それは噴水を渡って浮かび上がり、晩秋の太陽の中でくつろぐ観光客を包み、そして花嫁がウエディングドレスのポートレートを取っているテラスへと美しく飛翔していった』。『晩春(3月)、公園当局はセントラルパークに静かなゾーンを設置し、その中にべセズダ噴水も含まれている』。『音楽がなければ、特にボイドさんたちのようなクオリティの音楽がなければ、2007年の700万ドルの復元にも関わらず、地下道は風通しの良い、生気のない通路になります。しかし、歌で満たされると、それは建築家カルバート・ヴォーとジェイコブ・レイ・モールドのミントンタイルアーケードの美しい装飾の優雅なディテールを賞賛するために立ち止まるように誘うパフォーマンススペースに変身します』。この記事が読者に投げかけられ反響を呼び、公園当局による静かなゾーンが撤回され、音楽活動が再び自由に行えるようになった。
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異彩の音楽家 中野成将氏
🟢ビリーで目覚めた語学が礎に🟢
GUNSHY ガンシャイ Snow waltz 作詞・作曲 SHIGE 編曲 GUNSHY
白雪が舞い降り 街に魔法をかけ♬ キラメク光星屑のよう ♪ポケットに手を入れて うつむき行く旅人 ♪ 心の闇を彷徨ってる ♬ // 何を求めるの? 何が不満なの? ♪ 自分自身に問いかけても ♬ いつも答えなんてない だから旅を続ける ♬ ここではない何処かへ ♪// フと立ち止まり見上げてみる 消えそうな希望を探し ♬// 空を渡り 闇を越えて ♪ 何処まで行けば いいのでしょう ♬ 終わりなど無いこの旅を ♪ 独り彷徨う ♬// 街は笑顔であふれ 手と手を繋いで歩く ♪ 幸せな時 流星の様 ♬ ボロボロのマント 擦り切れた黒いブーツ ♪ 旅人は今も 一人きり ♬// つまずき倒れた雪の上で 眠ってしまおうか♪// 空を渡り 闇を越えて ♪ 何処まで行けば いいのでしょう ♬ 終わりなど無いこの旅を ♪ 独り今も彷徨い ♬// 谷の底へ 闇の中へ ♪ 何処までも深く 連れて行って ♬ 蒼くざわめく月の光 ♪ 届かぬ様に ♬//
小林一(以下 小林)「中野さんのニューヨークでの順調すぎる滑り出しは、中学1年生の時の家庭教師 鶴田先生の『成は音楽が好きだから』と英語学習にとCDを与えられた中に、ビリー・ジョエルのオネスティーとピアノ・マンが入っていた。これに尽きると思いませんか」
中野成将(以下 中野)「そうですね。ビリー・ジョエルの歌声にハーモニーで合わせると、それなりに2曲とも歌えた。これが礎となり洋楽に夢中になり英語が好きになったことは否めませんね」
小 林「ニューヨークに到着して直ぐに、ポートオーソリティ・バス・ターミナルの地下鉄A C E Canal St線の改札付近で『アメージング・グレイス』などを歌っているのを視聴したジョン・ボイドさんにスカウトされたわけですからね」。「まだ、語学学校に通っていない時ですよ」
中 野「そうですね」。「1か月後の3月に語学学校には行きましたからね」
小 林「その年に記者が歌声を聞きウォール・ストリート・ジャーナルに『立ち寄る価値があるストリートシンガー』として掲載していますから」。「さらに、その記事の中で、『ヴァリアントが「彼(中野)が、”The Prayer”(祈り)という曲を歌い出すと、彼の新鮮で自信に満ちたテナーボイスは女性たちを虜にします」と言いました』と掲載されていますから。ネイティブスピーカー以上の魅力があった証ですよ」
小 林「ところで語学学校はいつまで通いましたか」
中 野「2012年2月に就労ビザ取得が出来たため、仕事が忙しくなり学校を辞めました」
🟢 THE WALL STREET JOURNAL 🟢
~音楽家は不死鳥のように舞い上がる~
小 林「2014年、中野さんは再びTHE WALL STREET JOURNAL(ウォール・ストリート・ジャーナル)で特集されました」。「タイトルは”Musician Rises Like a Phoenix”(音楽家は不死鳥のように舞い上がる)、副タイトルが”Japanese street performer to sing at Cathedral of St. John the Divine”(歌う日本のストリートパフォーマーが、セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂で)」
小 林「この記事の舞台となった大聖堂についてお話しください」
中 野「はい。セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂は米国聖公会の聖堂でマンハッタン区にあります」。「1892年に建設が始まり、現在は3分の2を終え完成すると世界最大のゴシック様式の大聖堂となる予定だと言われている教会です」
小 林「記事の冒頭にMs.Conry(以下 コンリー)さんが登場しますが」
中 野「コンリーは、元ブロードウェイの女優さんで、私が日本人シンガーのコンサートに出演した折に紹介いただきました」。「それがご縁で、ベセスダの噴水へ通じるミントンタイルアーケードに歌を聴きに来てくれました」
小 林「記事でコンリーさんが『「私は彼(中野)の才能を認識しました」』。『「彼は鳥のように美しく歌う魅力的な男性でした。私は言いました、私と一緒に私の教会に行き、歌ってください。もちろん、無料で」』と言っていますが」
中 野「コンリーがMetro baptist church(メトロ バプテイスト教会)に、2011年の例祭に招待してくれました」。「そこで”The Prayer(祈り)”やシューベルトのアヴェマリアなどを披露しました」。「それからは、2019年まで年に2回~3回招待してくれました」
小 林「招待は、復活祭、聖霊降臨祭、クリスマス(降誕祭)などに、ということですね」
中 野「そうですね」
小 林「記事には『その後、コンリーはミュージシャン(中野)に対して多くの親切を返しました。最初に、メトロポリタンオペラ合唱団で歌っている友達に連絡を取り、中野さんの才能について話しました』。『その友人、Mark Dawson(マーク・ドーソン)は非常に感銘を受け、また「彼(中野)はストリートで人々が投げ入れるお金で生計を立てています」と聞き、中野さんを1か月間、オペラレッスンに通わせる費用を負担しました。「それは1時間150ドルです」とコンリーさんは説明しました』とありますね」
中 野「この機会は2013年に実現しました。ニューヨーク・メトロポリタンオペラ、世界を代表するオペラハウスの一つで、コーラスメンバーとして活躍するマーク・ドーソンさんのご厚意で奨学金を頂戴しました。これは、コンリーの推薦があったお陰です。その後、メトロポリタンオペラで活躍する著名なバリトン歌手、Mark Oswald(マーク・オズワルド)さんに師事する機会を得て、その指導のもとで学ぶことができました」
小 林「マーク・オズワルドさんからは、どのような指導を受けましたか」
中 野「まず、発声で ”あいうえお” でしっくりこない部分の、口の開けかたや舌の使い方の矯正レッスンを受けました」。「また、オズワルドから『中野は高音は素晴らしいね』と褒められましたが、低音の響きについて『中野ならもっと響くはずだ』とレッスンを受けました」。「一般的に共鳴させる場所は頭・鼻・口・胸・腹など、ケースバイケースで異なりますが、低音のレッスンでは胸で共鳴させ響かせるように指導を受けました」。「これらにより、自分なりに高音から低音までしっくり発声できるようになりました」
中 野「コンリーに感謝を込めて、その成果を披露すると大変喜んでくれました」
小 林「さらに記事には『コンリーさんは34歳のアーティスト(中野)に、シュー・ビン(Xu Bing’s)の彫刻が何かを刺激する可能性があると考え、大聖堂に案内しました。 実際には、中野さんは既にフェニックス神話にインスパイアされ、独自の作品、”Phoenix from the Ashes”(灰からのフェニックス)に取り組んでいました。しかし、その彫刻を見て、それを完成させるきっかけとなりました』とありますね」
中 野「今回は歌ではなくて、作曲をさせていただきました。コンリーが、『あなたには作曲の才能もある』と企画してくれたんです」
中 野「最初は、フェニックス(不死鳥)の寿命を迎えると自らから香木を積み重ね燃え上がる炎に飛び込んで死ぬが再び灰から蘇るという神話から、私なりの思想や感情を吹き込んで、オリジナルの”灰からのフェニックス”取り組んでいました」。 「しばらくして、コンリーに案内され、シュー・ビンの建築現場の廃材で制作された雌約30m、雄約27mのフェニックスの作品を目の当たりにして、その壮麗で雄大な作品とコラボレーション出来る”灰からのフェニックス”に改めて取り組み完成させました」
小 林「中野さんの作品”灰からのフェニックス”の真髄は何ですか」
中 野「シュー・ビンは急速に発展する中国の姿を、建築の廃材を使い対のフェニックスで表現したものと聞き及んでいます」。「私の作品は大地に生きる人間の栄枯盛衰の姿を曲により対のフェニックスで表現しました」
小 林「栄枯盛衰は世の常、衰え灰になったら再び灰から蘇り栄える。国・企業・人にも当てはまりますね」
小 林「記事に『Alvin Ailey School (アンビン・エイリースクール = エイリー)の教員であるLori Leshner(ロリ・レシュナー)がその作品の振り付けを担当しました。アンビン・エイリースクールの講師であるFernando Carrillo(フェルナンド・カリージョ)が” Feng”(フェン)というオスの鳥を演じ、エイリーで訓練を受けたダンサーのAshlynn Thomas(アシュリン・トーマス)が”Huang”(黄=コウ)という彼の仲間を演じます』とあり、さらに『演奏家は、ビオラ Rose Hashimoto(ローズ ・ハシモト=橋本)、チェロ John Min(ジョン・ミン)、ピアノ Nick Stubblefield(ニック・スタブルフィールド)、パーカッション Zach Jacobson(ザック・ジェイコブソン)、そしてベース Joseph Archbold(ジョセフ・アーチボルド)の5人も出演します』と紹介されていますね」
中 野「そうなんです。今回は、私の曲、それに演奏者とダンサーも加わりコラボレーションを行いました」
小 林「当日の2回の芸術家達の祭典は如何でしたか」
中 野「大聖堂で行われた2回の上演は、最初の進行から最後まで、全てが非常にスムーズに滞りなく終了しました」。「シュー・ビンの対のフェニックスと、私の灰からの対のフェニックスの曲、それに演奏、さらにダンスを重ね合わせた世界を視聴していただいて、その人なりにインスパイアされたことと思います」
中 野「終わった後、コンリーの案内で関わった芸術家達やスタッフの方達と、ピアノ、サックス、ベースのトリオが演奏するレストランに入りました」。「照明で演出されたホールへコンリーが立ち上がり、ブロードウェイ女優のダンスを披露すると、皆が次第に吸い込まれるように踊り出し、私もその渦に吸い込まれて行きました」。 「まるで、映画シーンの一場面を見ているようで、素敵なひと時でした」
小 林「大聖堂でのジョイントが成功裡に終わった安堵感と充実感で満たされた情景が、今でも鮮明に蘇ります」
中 野「コンリーは、セント・ジョン・ザ・ディヴァイン教会の上層部に承諾を得るために、『これは一夜かぎりのものではなく、アート作品を尊重するものだ』と、数か月かけて承諾に漕ぎ着けてくれました」。「その恩に報いるためにも全身全霊で作曲しました」
小 林「記事に『中野氏のアメリカでの軌跡は、努力、才能、そして時折の幸運の力を証明している』とありますが、中野さんからるる小学校の頃からの事をお伺いしていて、私もまさしくその通りだなと思います」
小 林「記事で『私(記者)には、知らされていませんでしたが、彼が非凡な才能や成就を持つ人向けの労働ビザを申請する際に、私も彼のキャリアに小さな役割を果たしました』。それは『彼らの歌声を公園で聞いた後、私はボイドファミリーと中野さんについて記事を書きました』とありますが」
中 野「そうです。2012年2月に就労ビザを取得しました」。「その時に係の方から『あなたがウォール・ストリート・ジャーナルに登場したアーティストですか』と聞かれ驚きました。それは、アーティストとしての証として、本当に効果的でした」
小 林「記事に『私(記者)たちがフェニックスの下で立っていると、コンリーさんが近寄って来て「彼は日本人でありながら、すでに彼の心はアメリカ人です。彼がプロのアーティストとして懸命に活動している姿を見ていると応援したいのです」と言いました』。そして、この記事は『このアーティストの次の目標はグリーンカードを取得して、アメリカに滞在し続けることです。この木曜日の夜のパフォーマンスは、彼に有益な後押しする可能性があります』と、なんと永住権を後押しする記事で終わりますね」
中 野「Ralph Gardner Jr.(ラルフ・ガードナー・ジュニア)記者さんとコンリーから過分な評価をいただいたことに対して、私は今でも深く感謝しており、その恩は決して忘れません」
🟢ニューヨーク拠点にYSBFの活動を支える🟢
小 林「YSBF、これは何の略でしょうか」
中 野「『ユア・スペシャル・バースデー・ファウンデーション』(以下 YSBF)の略になります」。「代表は篠塚京子さんという方で、『大勢の人に笑顔になってもらいたい』と、2016年にYSBFを設立しました」
小 林「具体的にはどのような、活動をなされているんですか」
中 野「ニューヨークとニュージャージーを拠点にして、養護施設、退役軍人施設、病院、修道院などを訪問して、プロの演奏家による質の高いコンサートを送り届けています」
中 野「実は、篠塚さんから私に『友人の誕生日プレゼントに中野さんの歌をプレゼントしたい』と、篠塚さんから要請があり、ニューヨークのとある施設を訪れました」
中 野「最初は皆さんが無表情で戸惑いもありましたが、歌を披露していくうとに皆さんの表情が和らぎ、懐かしい曲を歌い演奏すると一緒に口ずさみ、一緒に涙を流し、一緒に大合唱し、そして一緒に笑顔になるコンサートでした」
中 野「篠原さんから、『友人は勿論のこと施設に住むたくさんの皆さんが、笑顔になり喜んでくれた』と深く感激されました。後日、『あなたもYSBFの設立と運営に協力しなさい』と誘われました」
中 野「私は私で時折、その時の会場と一体化した情景が鮮明に甦り、感動に浸っていましたので、喜んで一つ返事で承諾しました」
小 林「中野さんは、この活動にどのように携わりましたか」
中 野「知り合いの音楽家の方々などへのYSBFの趣旨説明やプロデュースやMC、また歌とサックスなどを担当しました」。「2016年の設立から2019年のハワイ移住直前まで携わらさせていただきました」。「最初からYSBFの活動は、会場と共に歌い、共に泣き、共に笑えるコンサートで感動の連続でした」
小 林「ファウンデーションとありますが、基金はどうなされたのですか」
中 野「YSBFは非営利団体でありながら創立以来、寄付を受けておらず、全て篠塚さんの個人支出で運営しています」
小 林「篠塚さんの全額負担ですか。篠塚さんについてご紹介いただけますか」
中 野「篠塚京子さんは東京生まれで、富士通株式会社へ入社され、システム端末教育訓練インストラクターとして、省庁や企業などで指導されていました。その経験を生かして、1974年に人材派遣やICチップの販売を行うダイナミックセールスネットワークを設立されました。1988年にニューヨークでオフィスを開設し、1999年からは読売新聞ニューヨーク・オフィスが運営していた読売コンピューターの教室を任されるなど、ビジネスで成功された方です。既に引退して、現在はYSBFの代表で活動されておられます」
中 野「篠塚さんは言葉で語らず行動で示す人。決して威張ることもなく、誠実で寛大な方です。今でも尊敬しています。そして今でも慕っています」
時の河 作詞作曲 SHIGE 編曲GUSHY
目眩く時 瞬きの間に ♬ 幾億の想いは河へ流れ ♪ 海より深く空より高い ♬ 渦巻く僕らの愛や憎しみ ♪// 時の流れる 雄大な河 ♬ 柔らかに激しく果てしなく ♪ 数え切れない喜び悲しみ ♬ 流木の様 ただ今日を 流れる ♪// 寄せては返す幸せも ♬ またいつかは 晴れ渡る苦しみも ♪ 枯れゆく木々も 散りゆく花も ♬ 季節が巡り また命を燃やす ♪// 時の流れる雄大な河 ♬ 戻ることのない 巨大なうねりに揉まれ ♪// 数え切れない出逢いも別れも ♬ 流木の様 ただ今日を流れる ♪// 全てが流れる 雄大な河 ♬ 渇く事のない巨大なウネリに揉まれ ♪// 数え切れない喜び悲しみも ♬ 雲ひとつない空を行く ♪// この河 ♬//
その後、中野は2014年にニューヨーク・リリックオペラで舞台デビューを果たし、3回の公演を行った。2015年から2018年にかけては、ハーレムにある歴史深いGreator Hood Memorial AME Zion Church(グレーター・フッド・メモリアル・エイエムイー・ザイオン・チャーチ)で、毎週日曜日の礼拝においてソリストとしてゴスペルコーラスグループを牽引した。
中野は、2018年グラミー賞を受賞したビッグバンド、Vince Giordano and The Nighthawks(ヴィンス・ジョルダーノ・アンド・ザ・ナイトホークス)とジャズコンサートを行い、Victory Boyd(ヴィクトリー・ボイド)とも共演した。同年、NYCのコロンビア大学で開催されたコンサートでスティングの前座を務め、「君の高音は素晴らしい」という賛辞を受けた。
中野は2019年4月にアメリカ・ハワイへ移住し、ハワイ音楽部門でグラミー賞を受賞したウクレレ奏者のAbrahum Lagrimas Jr.(アブラハム・ラグリマス・ジュニア)、ピアニストのRyoko Oka(リョウコ・オカ)と共に『Angel Eyes』(エンジェル・アイズ = 天使の瞳)をリリースした。また、ウェディングシンガーや子供音楽教室の講師としても精力的に活動する。
2019年12月に中国湖北省武漢で新型コロナウイルスによる重症肺炎患者が報告され、以降、世界は新型コロナ感染症のパンデミックに複数回見舞われた。この影響で、中野は2021年2月に日本へ帰国。帰国後の2021年3月、TOEICに挑戦し、TOTAL SCORE 925点を獲得した。
中野が『異彩を放つ音楽家 中野成将』と称される所以は、これらの豊富な経歴にある。(完)
=次回のインタビューvisitもご期待ください =
(文・タイトル写真 小林 一)(カメラマン 藤原 稔)